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小山の伝説&昔の写真

小山の伝説・小山百景は、小山市教育委員会文化振興課・小山の昔の写真は、栃木県メディアボランティアに帰属します。無断転載、再配信等は行わないで下さい。

人から人へ、親から子へと長い間語り伝えられてきた伝説、それは生の郷土の歴史であり、かけがえのない文化遺産といっても過信ではありません。
伝説には多少の脚色があっても、郷土に根ざした先人たちのすばらしい英知や心情には現代に生きる私たちの心をとらえてやまない、不思議な力が秘められているように思われます。

小山百景

間々田地区

 

千駄塚古墳と浅間神社

間々田地区大古墳群の主役
国道4号線沿いの千駄塚地区を西へ約100m入った所、こんもりした森が千駄塚古墳だ。頂に富士山信仰の浅間神社を祀り、入口には鳥居が構える。別名「浅間山古墳」ともいわれる。
千駄塚古墳群の中心墳ともいえ、北に宮内古墳群、南に牧ノ内古墳群を従え、この3つで間々田地区の一大古墳群を形成している。
思川の段丘上に築かれた大形の円墳で、直径は約70m、高さは約10mを測る二段築成。截頭円錐形の墳丘を幅15〜20mの周湟がめぐり、とくに西と北側にはっきりと残る。埴輪・葺石をともなわず、内部主体が未調査のため築造年代は不詳だが、6世紀代とみられる。墳麓には近くの古墳から出土した家形石棺が保存されている。昭和32年(1957)8月27日、石棺が考古資料、古墳が史跡として県の文化財に指定されている。空から見ると、木々が生い繁るまぁるい形をした森だ。


 

安房神社

木漏れ日のなか神楽「岩戸開き」が演じられる
延喜式(927年)の神名帳にのる格式ある神社。安房国から分祀勧請との伝承がある。神社全体は豊かな自然林に包まれている。
元旦と春の祭りには神楽殿で太々神楽の舞が奉納される。十二座の伊勢誉田流を名乗り、幣舞に始まり山の神の舞いで終わる岩戸開きを主演目とする神楽だ。また、秋の例大祭には独特の飾りつけを施した神興が繰り出す。露盤に枯れた栗の穂先を麻で結びつけ、屋根・野筋・高欄などを紅白の水引で覆う。四方の鳥居に下げられた、アワムスビという飾り物を家に持ち帰ると縁起がいいことから、人々は争って奪い合いになり、祭りのクライマックスを迎える。







 

福地家の長屋門とケヤキ

長屋門が武家文化の歴史を伝える
中世、このちは黒田帯刀という土豪が館を構えていた。小山氏の没落とともに荒廃、黒田林と称し元禄4年(1691)頃から本格的に開発が進められた。
近世の西黒田は享保15年(1730)5月に分村願いが出され、新田中央の悪水路を境界として西坪一円を名主福地彦次郎へ依頼し、東黒田と東西に二分された。 
長屋門は江戸時代、武家屋敷などで長屋の一部に門を開いたもの。市内でも元名主の旧家をはじめ数多くみることができる。古い文化と歴史の重みを感じさせる貴重な建造物だ。 
長屋門の前、左右に2本ずつ合計4本のケヤキが植えられている。同時期の植栽と思われるが、大きさに違いがある。いずれも樹幹の途中に切断面を巻き込んだ瘤があり、ケヤキ特有の形状を示している。樹齢3百年以上と推定。樹勢の維持には十分留意され、管理は行き届いている。
福地家の祖先がこの地に移ってきた折、植えられたという。
 

間々田八幡宮と蛇祭り

田植えを前に好天候を願う「ジャガマイタ」
5月5日の「子供の日」、間々田地区では「蛇祭り」という珍しいお祭りが繰り広げられる。田植えを前にほどよい雨風を神仏に願い、あわせて悪病を追い払う行事だといわれている。地元では「ギャガマイタ」のほうがわかりやすい。
祭りが近づくと子供も大人もわくわく。蛇の準備は1か月前から始まる。竹・ワラ・藤ツル・シダなどを材料に、3日程かけて長さ15〜20mの蛇体をつくる。一番むずかしいのは頭部、そこは大人たちの腕の見せ所だ。
各会所を出発した蛇体はいったん古社八幡宮に集合。御祓いを請けたあと瓢箪池の水をたらふく飲んで再び町へと繰り出す。「八大龍王」の幟を先頭に、子供たちは蛇体を担ぎ、「蛇がまいた、蛇がまいた、四月八日の蛇がまいた」と叫びながら町内を練り歩く。かつては旧暦の4月8日に行われていたが、いつからか「子供の日」のお祭りになった。昭和39年(1964)11月10日、県の無形民俗文化財に指定されている。
 

間々田八幡公園の四季

四季折々の変化を見せる八幡池周辺の広大な森
間々田八幡公園は約5haの広さを持つうっそうとした森。そのうち2ha余りが八幡宮神社の好意で市民に開放されている。すぐ北側には間々田中学校が建つ。
中央に間々田八幡宮神社が鎮座し、東から南西へドッグレッグした「八幡池」がめぐる。この池は3つにくびれ、上から「瓢箪池」「弁天池」「ほたる池」と愛称される
静かな鎮守の森はコナラ・スギなどの大木が林立し、森林の変遷を知る生きた標本として重要な自然。木々の香りを体全体に浴びる森林浴にもぴったりだ。
間々田八幡公園の季節は四季それぞれにめぐる。
春、池のまわりの桜にピンクの花が咲くと「桜祭り」。園内は花見客で急に賑やか−。初夏、紫陽花が七色に変化。暑さから逃れて木陰が涼しい−。
秋、落ち葉がなぜか物悲しい。寒い冬がもうそこまで−。雪の朝、親子連れのアヒルが湖面に遊ぶ−。

 

思水富士と夕浅間

冷たく澄んだ夕空に浮かぶシルエット
国道4号線の栗宮地区、西掘酒造の所を西に折れる。しばらく行くとゆるやかな坂がカ−ブを描いて思川の間中橋にさしかかる。
空気が冷たく澄みきった冬、橋のたもとから南の方に夕焼けに映えた富士の頂き、西の方に浅間の山並みが見えることがある。
富士の霊峰は静岡・山梨両県の境にそびえるわが国第一の高山。美しい裾野を引き、頂上には深さ220m程の火口を持つ。剣ヶ峰をもって3,776mの高さを測る。たびたび噴火、宝永4年(1707)に爆裂して宝永山を東南中腹につくり活動静止。昔から日本画によく描かれる。 
浅間山は長野・群馬両県にまたがる三重式の活火山。海抜2,560mでこれもしばしば噴火し、天明3年(1783)には死者2千人余りを出したと記録に残る。
誰が名付けたか「思水富士」と「夕浅間」と人々は呼ぶ




 

乙女不動原瓦窯跡

瓦生産の全容を伝える貴重な遺跡
JR間々田駅から西へ国道4号線を横断して約600m、市立博物館のすぐ北隣の小さな森が窯跡だ。瓦生産跡の前容を伝える前例のない貴重な遺跡で、昭和53年(1978)国指定史跡になった。
森は高台で北側は小さな谷から低地。その境目を小川が流れ湿地になっている。高台部分は平坦な草地、地中に粘土溜めや工房などの遺構がある。窯はその斜面を利用してつくられた。
奈良時代、下野薬師寺をはじめ当地域の重要な寺院に瓦を供給していたのだ。
昭和52年(1977)の調査で4基の窯跡・工房跡・住居址を確認。平成元年(1989)の調査で、窯は平窯(ロストル窯)で瓦専用の窯であることがわかった。
「歴史の道」は窯跡の横を通って市立博物館へと続く。桜並木もあり日光連山も眺望できる。今後は窯跡の復元など、隣接する博物館との一体利用が考えられる。
 

間々田八幡宮の奉納相撲

どちらが勝っても豊作な実り
神社の例大祭日、いまは9月15に奉納相撲が行われる。相撲はいわずと知れた日本の国技。プロもアマも独特の伝統的力技を競う。
この日、町内の育成会から選ばれた小学生の男女約200人が境内に集合する。土俵脇の石段は、にわかづくりの枡席となり、応援の親たちでいっぱいだ。
祝詞にあと「豊作」と「満作」のシコ名の子供が東西に分かれ、何番か神事としての取り組みを行う。どちらが勝っても行司の勝ち名乗りは「豊作」になる仕組みで、その年の実りが約束される。
この日ばかりは鎮守の森の静寂も、わが子を応援する喚声でかき消される。




 

南飯田の神田囃子

江戸末期に伝わってきた囃子と踊り
小山市を代表する郷土芸能。地元鹿嶋神社の祭礼の主役。各地のイベントに引っ張りだこ。神田囃子は県内各地で行われ、囃子と踊りは江戸・神田囃子の亜流。江戸末期に地方へ伝わり、ここ南飯田の人たちも習い覚えたのだろう。
明治中期、南飯田出身の地方まわりの歌舞伎役者・小森谷代蔵の指導でお囃子連は歌舞伎芝居を練習、囃子と地芝居の2本立てで30人を超える座員で各地を興行、「麦はいつまく(五幕)芝居はむまく(六幕)・・・・・」という俗謡が流行ったという。
満州事変を境に一次消滅の危機に瀕したが、昭和23年(1948)、囃子連三代目の飯島吉四郎らが再興して保存会を結成。同39年(1946)5月14日、市の無形民俗文化財に指定された。笛の名調子に軽妙な踊り。洗練された技は、親から子へとしっかりと伝承されている。
 

間々田ひも

草木染めの絹糸がつくりだす華麗な色綾
起源は平安時代という歴史と伝統のある組紐。昭和29年(1954)、渡辺家を訪れた日本の民芸運動創始者の一人・柳宗悦によって「間々田紐」と名付けられる。本県唯一の手組み紐として有名。先代渡辺浅市が東京の紐作り師深井誠太郎に師事、その技術を体得する。先代亡きあと、子息・操氏が二代目を襲名。小学生のときから父を手伝い、技歴は40年余りを数える。先代も二代目も県の文化財保存技術者、いわば栃木県の人間国宝だ。
   
※おやま百景ガイドブック:平成6年10月24日初版発行・平成16年5月15日改訂版発行 編集 小山市教育委員会 文化振興課

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