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小山の伝説&昔の写真

小山の伝説・小山百景は、小山市教育委員会文化振興課・小山の昔の写真は、栃木県メディアボランティアに帰属します。無断転載、再配信等は行わないで下さい。

人から人へ、親から子へと長い間語り伝えられてきた伝説、それは生の郷土の歴史であり、かけがえのない文化遺産といっても過信ではありません。
伝説には多少の脚色があっても、郷土に根ざした先人たちのすばらしい英知や心情には現代に生きる私たちの心をとらえてやまない、不思議な力が秘められているように思われます。

小山百景

穂積地区

 

等覚院


33年に1度の御開帳安産の御利益がある「お腹ごもり」観音
豊穂川沿いの道を西に向かい、「文化シャッタ−」の手前、豊穂橋を左へ曲がると上石塚の本郷坪に入る。
上石塚は史料によると、明治7年(1874)には戸数44戸・人口245人とある。いまは68世帯・416人。等覚院はこの静かな集落の一角にある。境内はおよそ1500坪、朱色の観音堂の右には少し小さい薬師堂が建つ。
宮本町にある真言宗持宝寺の末寺で、高橋山観音寺等覚院という。開基・開山などは不詳。
藤原秀郷が平将門を破った功績により、朱雀天皇から「閻浮壇金」(金製)の1寸8分の観音像を賜った。
そして後花園天皇のとき、安阿和尚が3尺8寸の木像の腹中にそれを納めて安置した。これを「お腹ごもり」の観音と称し、毎年8月17日に法会が営まれる。安産に御利益があるという。
御開帳は33年に1回。つい4〜5年前にあったばかりだから、この次は間違いなく21世紀だ。

 

稲荷神社

庶民信仰のよりどころ邪心を断ち切る「心図」絵馬
明治10年(1877)当時、市内には567の神社があった。それが昭和50年頃には117に減る。社名も稲荷神社が最も多く59を数えたが、残ったのはわずかに9つだ。
稲荷神社は屋敷神としても祀られ、一番多いのは関東に共通した傾向といってもよい。市内では大本地区の篠塚稲荷神社が著名だ。
本殿は小規模な一間社流れ造りで屋根はコケラ葺き、身舎の前面と両側の三方に高欄付きの槫縁を廻し、両側背後に脇障子を立てる。
現在する2枚の棟札によると、正一位稲荷大明神の贈位状が与えられた7年後の正徳4年(1714)に社殿周囲の建物が完成し、その1年後に本殿や拝殿などが完成したことがわかる。
平成3年には、博打や大酒など邪な心を断ち切るために奉納した「心図」絵馬が、同5年には本殿が市の文化財に指定されている。
境内には緑も多く、桜がいっせいに咲くとにわかに明るくなる。庶民信仰のよりどころとして、地域住民の人々に愛されている。

 

蚕室づくりの農家 (福田家)

結城紬を支えた蚕種製造業いまも蚕室にはマブシが残っている
いまとなっては、労力の割りには収入も少なくなってしまった養蚕。桑は荒蕪地に強いとあって、小山にも桑の里がたくさんあった。
福田家は明治時代、手広く蚕種製造業を営んでいた。蚕の最盛期には30人もの人手を借り、作業はおおわらわだったという。明治の女性運動家・景山英子と結婚した福田友作の生家でもある。
桑は切ってもすぐに葉をつけ、1回の養蚕は約2か月ぐらい。収穫は春蚕・夏蚕・秋蚕の年3回。
桑の葉の緑に、白い蚕が美しい。葉を食む蚕たちのざわめき。蚕たちは、腹一杯に桑の葉を食べては深い眠りを繰り返す。
マブシという枡目に区切られた木枠に、蚕たちは自分の部屋を与えられたと思い入り込む。口から白い糸をはき繭玉をつくる。蚕室はそのマブシの棚で一杯だ。
蚕は温度に敏感。寒い時期は暖をとった。その煙を排出しやすい構造にしたのが蚕室の特徴だ。このような家は養蚕の盛んな地域ではよくみられたが、だんだんと姿を消しつつある。
 

国府神社のケヤキ


根周り22m・高さ25m伸び伸びした樹形
下国府塚村は、正徳5年(1715)の「村明細帳」によると、戸数75・人口364人。「広栄寺(興永寺)」というお寺と「大日堂」があったことがわかる。
国府神社の由来は不詳だが、御本尊は大日如来。これは神仏混淆により明治になって神社になった例と思われる。昔は「大日権現」といっていた。
神社は石垣で築かれた約10m四方の一段高い所に鎮座。ケヤキは正面階段のすぐ右に天高くそびえる。高さ約25m・目通り約5mで根周りは22m。枝張りは東西22m・南北20mを測る。
周囲に木の成長を阻害するものもなく、伸び伸びとした樹形を保っている。上部には枝の折損した跡も比較的少なく、従って瘤も少ない。地際の幹内は空洞になり、その上端にコフキサルノコシカケの寄生痕があるものの、樹勢は極めて旺盛である。
地元の人々の厚い信仰に支えられ、御神木として大切に守られている。

 

間中の桜並木

200mも続く花のトンネル地元の人たちが手厚く保護
国道50号線の萩島交差点を南へ、県道萩島〜白鳥線の塩沢から間中にまたがるカ−ブ直前の約200mに渡って、道路両側に桜の木約60本が等間隔に並ぶ。
昭和15年(1940)、神武天皇即位から数えて紀元2600年を迎えたとして、日本各地で奉祝行事が行われたが、この桜もそれを記念して植えられたもの。
間中地区は思川に面し洪水も多く、たびたび堤防も破れた。文政12年(1829)に堤72間(約130m)を修復、石ノ上・塩沢村地区を含めて延べ2万人の人手がかかったと記録に残る。
最近、土地改良によりその土手にも桜の木30本植えられた。
春、いっせいに花が咲きはじめると、桜並木は淡いピンクのトンネルに変わる。並木入口の商店「朝日屋」の主人は「この道はけっこう車が多い。でも桜が咲くとみんなスピ−ドを落とすんですよ」と語る。
地元自治会の人たちの手により下草刈りや枝払いなどが行われ、手厚く保護されている。
 

豊穂川

両岸は見事な桜並木、「富士見荘」前がとくにすばらしい
市の西部を流れる巴波川。下流の生井・寒川地区は大水のたびに水害に悩まされてきた。戦時中の昭和16年(1941)頃、その暖和策として上流に洪水を吐かせるための1本の水路・豊穂川がつくられた。
水路は栃木市と大平町の境界の卒島付近から小山市へ入る。そこから豊田〜穂積地内を流れるので、頭の1文字をとって「豊穂川」と名付けられた。
昔、子供たちは自然と友達だった。魚や虫とともに生きていた。学校帰り「道草はダメよ?」と母親によくいわれた。しかし、よくやった。道草には驚きや冒険があった。後ろめたさがあった。でも親友ができた・・・・・。かつてはホタルが乱舞したという豊穂川。両側の堤に桜並木が続き、老人ホ−ム「富士見荘」あたりで爛漫に咲き乱れる様子はとくにすばらしい。
お年寄りは毎年、花も咲くのを楽しみに待っている。



 

穂積小学校跡の柳

高さ10mを超える大木が枝をそよがせている
穂積小学校は明治6年(1873)9月2日の開校。はじめ新民舎と称し下国府塚にあった。
大正6年(1917)9月、工費3万円余りで大字萩島に広大な新校舎を建てる。
柳の木はこのとき植えられたのだろう。樹齢80年以上は間違いない。柳の木だけが古い敷地に残った。これだけの大ヤナギは市内でも珍しく、遠くからでもよく目立つ。







 

防風林のある旧家

江戸時代そのまま長屋門が残る豪農家の家
岸家は旧国道50号線の南側、下国府塚集落の中心地にある。代官も務めた近世以来の豪農。
宝永3年(1706)には 、使用人を含め16人という村内最大の家族数を誇っていた。
下国府塚村は享保期(1716〜35)に一村幕領から旗本の三給知行所となる。岸家は富田氏知行所の郷代官に任命されて芳賀・都賀郡の同氏知行所4か村を統括、年貢の収納や勝手方賄役として旗本領の財政にも深くかかわった。
うっそうとした屋敷森が西側を包む。長い歴史を感じさせ、TV時代劇のロケにも使われた。遠くから見ると、まるで江戸時代へタイムスリップしたようだ。








 

昔に名主を偲ばせる長屋門と堀(松本家

武家屋敷を思わせる端正な白壁の塀
松本家はちょうど栃木街道と佐野街道に挟まれた上国府塚地区、県道下国府塚〜思川停車場線沿いにある。
現在、市内に残る古い民家は18世紀以降に建てられたものが大部分と考えられている。従って、それ以前の民家建築については不明な点が多い。
特徴は、広大な敷地と冬の空つ風を防ぐ屋敷林だ。主屋を中心に蔵・納屋・肥料小屋などが広い庭を囲んで建てられている。
また、村役人や豪農の家は、玄関・座敷を表に突き出した栃木県特有の曲り家形式が多かった。棟はソリ棟、軒先はセガイ造りが一般的。主屋から腕木や桁を突き出し、これに横木を載せ井桁部に天井を張り、この横木で垂木を支えたもの。
村役を務めた家や本家筋の家などに限って許され、家の格式を表す指標ともなっていた。市内にみられる長屋門のほとんどは明治以降の建築と考えられる。漆喰壁の白さとドウダンツツジの緑、小さなポストの赤が鮮やかだ
※おやま百景ガイドブック:平成6年10月24日初版発行・平成16年5月15日改訂版発行 編集 小山市教育委員会 文化振興課

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