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小山の伝説&昔の写真

小山の伝説・小山百景は、小山市教育委員会文化振興課・小山の昔の写真は、栃木県メディアボランティアに帰属します。無断転載、再配信等は行わないで下さい。

人から人へ、親から子へと長い間語り伝えられてきた伝説、それは生の郷土の歴史であり、かけがえのない文化遺産といっても過信ではありません。
伝説には多少の脚色があっても、郷土に根ざした先人たちのすばらしい英知や心情には現代に生きる私たちの心をとらえてやまない、不思議な力が秘められているように思われます。

小山百景

絹地区

 

高椅神社と大々神楽

「禁鯉の宮」伝説があるから氏子は鯉のぼりをあげない
延喜式内社の格式を誇る古社。「禁鯉の宮」伝説で知られ、氏子地域の高椅・福良では、いまも鯉を食べず、鯉のぼりも上げない。
古色蒼然の楼門は結城城主水野氏の寄進。宝暦4年(1754)に着工、領内から約4千人が動員され、明和7年(1770)に完成したという。
つらい農作業から解放された秋の1日、神楽殿で太々神楽が奉納される。岩戸開きや大蛇退治など日本神話を題材にした神代神楽。太鼓の荒々しさに舞いのやさしさ。静と動が一緒になって見せ場をつくる。神事舞踊としての上品さがただよってくる。
楼門・神楽とともに「養蚕図」絵馬などが市の文化財に指定。







 

鬼怒川

かつては、その名の通りの暴れ川
鬼怒川は県北西部にある鬼怒沼を水源とし、深い緑の山々を縫い、大谷川を合流して本県のほぼ中央を貫流する。
流域の穀倉地帯を潤し、私たちに豊かな水を与えてくれる、文字どおり「母なる川」だ。
「毛野川」「衣川」「絹川」とも書かれ、流路延長176qのうち、県内は小山市までの124q。市内はわずかに絹地区の6.5qを流れ茨城県に入る。
鬼怒川は暴れ川で洪水も多く、古くは天平宝字2年(758)、延宝4年(1676)、天和3年(1683)に洪水があったことが記録されている。
とくに享保8年(1723)に起きた「五十里水」洪水は有名で、鬼怒川の流れが西岸の舟戸村まで押し寄せ、「田川」との間が270mまでに迫ったという。以後も明治・大正と続き、昭和に入ってからも数多く記録されている。
いまは護岸工事で水害も少なく、何事もなかったように静かに流れる。「五十里水」はもう知る由もない。

 

田川放水路


大水を鬼怒川へ逃がして水害を防ぐ
絹地区の北部、南河内町と接する主要地方道宇都宮〜結城線に架かる舟戸大橋が、田川放水路の水門となっている。
小山市域は鬼怒川・巴波川・思川を抱え、利根と渡良瀬の両大河にも接しているだけに、近世では毎年のようにどこかで水害がおこっていた。
なかでも天明6年(1786)7月の洪水は、近世に発生したうちでも最大規模といわれた。その被害は関東一円におよび、江戸はもとより関東平野の奥深く栗橋宿あたりまで海のようになり、丘は水没して州となり、瀬は変じて淵となったと記録に残っている。
舟戸村でもこのとき3か所の堤が決壊。その後、大正14年(1925)8月の豪雨では8尺の増水。昭和13年6月のときは田植えが危ぶまれた。鬼怒川と田川に狭まれたこの地は水害の常襲地であった。
昭和48年(1973)2月22日、洪水を鬼怒川に逃がす放水路が完成。おかげでめったに水害もなくなり、やっと地元民は安心して生活できるようになった。
 

中河原の廻り地蔵

1軒1晩、地区内の家を背負って廻す
お地蔵はいい伝えによると、地元の大塚多右衛門という人がつくり、全国を3回も廻って霊験あらたかということでこの地に残されたという。いまは木箱に収納されている。1か所に安置してしまうと、何か変わった事が起こるという理由から1軒1晩のきまり。
地区内の71軒を、背負って次から次へと廻す。そこから「廻り地蔵」と呼ばれている。
お地蔵を迎えた家は座敷に一角に安置する。灯明とともに果物などを供え、家族一人ひとりが線香をあげ、両手をあわせて家内安全や無病息災を祈る。
お地蔵様の目はやさしく、慈悲深い顔をしている。






 

結城紬

栃木県を代表する伝統工芸品
歴史と伝統に育まれた「結城紬」。昔から男と女が手間暇掛け、助け合いながらつくってきた。家族みんなの協力の産物である。結城紬は絹地区や隣接する茨城県結城市を中心に生産される手織の絹織物。昭和31年(1956)、国の重要無形文化財に指定され、本県を代表する伝統工芸品となった。「結城紬」という名は、室町時代にこの地方の領主である結城家から、室町幕府や鎌倉管領に献上品として納められたことからつけられたという。
結城紬は複雑な工程。姑が縁側で糸を紡ぐ。指先をなめながら両手で手際よく真綿をさばいていく。男は太陽の照りつける下でクビリつけ。織糸の墨付けに従って、綿糸を何回も何回も固く縛っていく。染色は納得いく藍色が出るまで繰り返される。糊付けされた織糸はていねいに巻かれいよいよ機織りだ。嫁が「織姫」となってイザリ機に向かう−。ここに結城紬に生きる家族がある。家族の絆は、しっかりと結城紬の中に織り込まれている
 

上梁八幡宮の桜と大ケヤキ

春の色は参道の桜並木秋は大ケヤキの紅葉
もともと「梁」は1村だったが、元禄年間(1688〜1703)に上梁と下梁にわけられたという。村名は昔、結城某なる者が地内を流れる田川に梁を設け、漁業を営んでいたからと伝わる。
八幡宮は文冶5年(1189)の勧請だが、由緒など詳しいことは不明。誉田別命を祭神とする。
ケヤキは二の鳥居のすぐ左後ろに、天高くそびえる。根元には大きな瘤があり、地元では「玉木」と呼んでいる。樹齢は900年とも。秋、大ケヤキの紅葉。春には参道の桜並木がパァッと明るくなり実に見事だ。
境内は月一回、地元民によりきれいに掃き清められる。







 

神明宮の紫陽花

氏子たちによって手厚く植栽された紫陽花
中河原は絹地区の南部、結城市と接する静かな田園地帯にある。神明宮は集落の入口、地区公民館の奥にある。
かつて結城氏は、領内から主な神社7つを選び「結城七社」と称して、特別な庇護を与えた。高椅神社・梁の八幡宮・萱橋の鷲宮大明神、そしてこの神明宮の4つが小山市内にある。
享保15年(1730)の勧請とあるが由緒は不詳。境舞は約千坪の広さで地域の鎮守の森となっている。
昭和61年(1986)、氏子たちは周りに紫陽花を植え「アジサイ会」を組織して手厚く愛護している。七色に変化する紫陽花は「結城七社」にふさわしいかも知れない。








 

休の天満宮

4つの境内社を持つ学問の神様必ず合格させてくれるという
天満宮は県道結城〜二宮線沿いの福良地内の休坪にある。絹地区唯一の学問の神様として深い信仰を集める。
一の石鳥居から長い参道が続き、二の鳥居は柱と島木が朱色に塗られた木製で珍しい。額束には「天満宮」の文字。笠木は銅板葺きで見事に反っている。
天満宮といえば、平安時代の学者・菅原道真を祀る京都の北野天満宮が名高い。休の天満宮も嘉吉元年(1441)にそこから勧請したという。菅原道真のほか建御名方神を祭神としている。明治6年(1873)に社殿を改築。境内社として大杉神社・稲荷神社・松尾神社・三峰神社の4社を持つ。
合格祈願祭は毎年1月15日に行われていたが、最近はそれでは間に合わないということで、近々、12月に改められるという。
この日、地元の絹中学校をはじめ聞きつけた受験生が、天満宮に大勢押しかける。
神主の祝詞の後、一人ずつ玉串を神前にささげ、希望校への無事合格を一心にお祈りする。
 

十三夜・十五夜のワラ鉄砲

収穫を感謝するお月見の行事大地の精霊をよみがえらせる
秋の取り入れが終わると、神にそのお礼をしなければなれない。ワラ鉄砲は、豊作に感謝するお月見の子どもたちの楽しい遊びだった。里芋の茎を芯にその上から新ワラを巻き付け、縄でしっかりと締めつける。
子供たちはめいめい手にワラ鉄砲を持ち、各家の縁先で「十五やお月のワラデッポ 麦も小麦もよくあたれ 三角畑のソバとれろ ハンジョウ」と大声で叫びながら大地に叩きつける。
大地を叩くのは、農作物の害となるモグラを打って追い出すのだともいわれるが、もともと大地の精霊をよみがえらせる呪術であったといわれる。
各家では月のよく見える縁側にちゃぶ台を出し、花瓶にススキの穂を入れて飾り、収穫物の芋や枝についたままの柿などと一緒に団子をあげて子供たちを迎えた。
お供え物は「十五夜」は5の数、「十三夜」は3の数という。5本のススキ。十三やになると栗のイガはもうついていなかったこともあった。
※おやま百景ガイドブック:平成6年10月24日初版発行・平成16年5月15日改訂版発行 編集 小山市教育委員会 文化振興課

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