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小山百景 小山地

小山の伝説・小山百景は、小山市教育委員会文化振興課・小山の昔の写真は、栃木県メディアボランティアに帰属します。無断転載、再配信等は行わないで下さい。

人から人へ、親から子へと長い間語り伝えられてきた伝説、それは生の郷土の歴史であり、かけがえのない文化遺産といっても過信ではありません。
伝説には多少の脚色があっても、郷土に根ざした先人たちのすばらしい英知や心情には現代に生きる私たちの心をとらえてやまない、不思議な力が秘められているように思われます。

小山百景

小山地区

 

城山公園の大イチョウ

樹齢は900年余り悲話伝説の大イチョウ
城山公園の一角、祗園橋を渡った深い堀の近くにそびえ立つ。高さ15m・目通り6.2m・枝張り東西11m・南北12m、樹齢は900年以上とも、須賀神社の所有。享和3年(1803)の「日光駅程見聞雑誌」に「高さ三丈ある古木なり」とあり、江戸末期すでに古木だあったことがわかる。伝説によると、祗園城落城の際、姫が井戸に身を投げ、後の目印にとそばにさしたイチョウの小枝が大きくなり、姫の霊が龍もり決して実をつけないという。
 

西林寺の四方竹

船着場の繁栄を見守った竹林幹は四角形
西林寺は貞永元年(1232)の創建と伝えられる浄土真宗の寺院。山院号は鷲谷山高沢院。思川のほとり神鳥谷地区字船場にある。中世から近世にかけての舟着場で、字船場の地名はその名残り。一般に浄土真宗の寺院はこうした交通の要衝に建てられることが多く、商人や職人・運送業者などの信仰心をとらえていた。また、この地は鷲城と長福城の城下町でもあった。
四方竹は中国原産。幹は丸みを帯びた四角形で高さは約8m。表面は濁緑色で主に鑑賞用。本堂北側に密集して生える四方竹も、おそらく珍しさも手伝って行き交う旅人によりこの西林寺に植えられたのかもしれない。


 

妙建寺の枝垂れ桜 ・サンシュユ

枝垂れ桜は手水舎の近く、サンシュユは本堂の前、花期にはそれぞれ美しい姿を見せてくれる。サンシュユは漢名「山茱萸」の音読み。正しくは「野春桂」と書き「山茱萸」はまったく別の植物との説もある。
早春、葉が出る前に小さな黄色い花を小枝の先いっぱいにつける。そんなことから「春黄金花」という別名がよく似合う。また、秋の赤い実も美しく、茶庭に好んで植えられる。枝垂れ桜はエドヒガンの一変種で、その姿から「糸桜」ともいわれ、鑑賞用として庭園・寺社などに多く植えられる。とくに淡紅色の花は優美さえ漂う。いまの枝垂れ桜は2代目。初代は昭和初期に枯死。脇に植えられてあったのが現在のもの樹皮は苔むし。樹齢は80年以上とも。
真下から見上げると、枝の広がりはあたかも天藍を思わせる。
 

駅東通りの桜並木

「駅東通り」は都市計画によりきれいな街並みとなっている。小山市における土地区画整理事業は、旧耕地整理法による昭和28年(1953)東北本線西側の本村・城山地区を最初とする。その後、昭和30年代後半から東北本線東側の開発に着手。昭和39年(1964)に小山駅東地区、同年41年南地区、同45年には城東地区と事業は着々と進められていった。「駅東通り」は幅員18m・延長1210mの都市計画道路で市道25号線に認定されている。小山駅東口から東に真っ直ぐ、両側には小山郵便局・小山商工会議所会館・城東公園などが建ち並ぶ。
街路樹として八重桜が植えられ、通称「桜通り」とも呼ばれ親しまれている。かつて満開になると「桜祭り」が開かれ、ビルの谷間に「小山音頭」がこだまし流し踊りがみられたという。
小山市は住み良い街づくりをめざして、いまも土地区画整理事業が続く。
※現在は、桜の木が老朽化の為伐採されています。
 

思川の流し雛

紙人形に思いを託す夏の風物詩
流し雛といえば普通3月だが、7月の第1日曜日、浴衣姿の女性たちが思川河畔に集う。手にはそれぞれ「紙人形」を乗せたワラ舟を持っている。
戦後、揉み紙技法の「下野しぼり」を伝え諏訪重雄さんが始めた「思川の流し雛」だ。いまや、小山の夏の風物詩となっている。流し雛は陰陽道のお祓い「形代流し」に由来するという。
雛人形は「下野人形」と名付けられた大きさ20〜40p位のもの。丸髷・島田髷の着物姿に洋装の人形もまざっている。
去年、願いが叶った人は墨で、人形に目・鼻・口を書き入れる。今年、願かけ人形はその目鼻がない。笹の葉には「交通安全」「無病息災」などと書かれた小さな短冊。人々はさまざまな思いを託しワラ舟をそっと思川に流す。「下野しぼり」技法は、昭和43年(1968)9月3日に市の無形文化財に指定されている。


 

思川の鮎釣り

解禁日を待ちわびる釣り人たち
鮎、清流の貴公子とも女王とも呼ばれ、川魚として最も日本人に親しまれている魚だ。独特な香りから香魚と書く。
初夏、太公望たちは解禁日を待ちわびる。白々と夜が明ける頃、釣り人は一斉に糸を垂れ、満足な釣果が得られるまで鮎との長い戦いが繰り広げられる。
観光橋を中心に上流は島田橋〜黒本橋、下流は石の上橋〜間中橋付近まで格好なポイントをめざす。漁法はおとり鮎を糸につけ、鮎の習性を逆用した友釣りが主流だ。
大正から昭和初期にかけては、豊富な魚獲を以て、野趣に富んだ屋形船による鮎狩りも盛んだった。涼風をあび船頭が口ずさむ船曳歌のなか、旧城跡の新緑を仰ぎつつ新鮮な鮎料理に舌鼓みを打ったと古老は懐かしむ。
釣り人は今日1日の釣果をしっかりと確かめ、自然の恵みに感謝して帰路に着く。



 

天翁院(小山氏の墓)

累代の墓石が並ぶ小山氏の菩提寺
天翁院は小山祗園城跡の一角にあり、小山氏の菩提寺として有名。1万5千坪におよぶ境内の奥まった所、横一列に累代の墓石が並ぶ。いまは曹洞宗の寺院が祇園山万年寺と号す名刹。
平安末期の久寿2年(1155)、小山政光の開基といわれ、最初は北山(中久喜地内)に創建されたという。文明4年(1472)小山高朝が倍芝正悦を招いて中興開山の師と仰ぎ、現在地に移建した。天正元年(1573)高朝が没すると、その法名「天翁孝運」にちなんで「天翁院 」と院号を改めたという。
山門の入口には弾寺らしく「不許葷酒入山門」の石柱が不浄の侵入に対し外界と一線を画している。境内には雨乞い地蔵・六地蔵のほか句碑や記念碑などが立ち並ぶ。
また、多くの板碑は祗園城との関わりとその歴史の古さを物語っている。
足元に二人、腕に 一人の乳飲み子を抱えて親子地蔵が、なんともあどけない。


 

須賀神社

祗園祭の大神輿 
担ぎ手のかけ声は「アンゴステンノー」
小山の夏といえば、思川の花火と並んでなんといっても須賀神社祗園祭の勇壮な大神輿。
須賀神社はかつて、祗園社あるいは牛頭天王社といわれ、天慶3年(940)、藤原秀郷が京都八坂神社より分祀勧請したと伝えられる。
代々、小山氏の宗敬厚く、小山荘六十六郷の総鎮守。昔から祗園際の規模の大きさと賑やかさはよく知られ、江戸時代の地誌「下野国誌」に「当国第一の祗園会なり・・・」と記されている。
いまは7月14日の例大祭式に始まり、第3日曜日に大神輿の渡御が行われる。この大神輿は明治8年(1875)につくられ、総欅素木造り重さ2トン。百人余りの行者によって担がれ、「アンゴステンノー」(南無牛頭天王)という独特のかけ声は珍しい。熱い夏に燃え尽きる男の祭りだ。
なお、社名は祭神の素盞鳴命が出雲国須賀の地に寓し「我が御心須賀須賀し」と述べたことに由来するという。
 

愛宕神社の大ケヤキ

御神木として崇められる大キヤキ
愛宕神社は小山義政が康暦元年(1379)に山城国愛宕郡から観請。祭神は火産靈命。小山荘六十六郷の五穀豊穂と火伏・万民の家内守護を祈願した。大ケヤキはこのとき御神木として植えたと伝えられる。樹齢は600年以上とも。
高さ約24m・目通り約7m。枝張りは東西約25m・南北約21m。昭和47年(1972)12月18日、市の天然記念物に指定された。大正2年(1913)の大火により樹冠が類焼し、そのため上部を欠く。枝も台風や落雷で途中から折れたりしたが、幹は太く、根も力強く大地にしっかりと張っている。境内に俳人松尾芭蕉の門弟、宝井基角の句碑「ほととぎす 一二の橋の 夜明けかな」がある。
寛文7年(1667)建築の鳥居は市内で2番目に古い。神社脇の坂は文化2年(1805)の「小山宿絵図」に「清水坂」とあり、思川に通じる。横町長寿会の人たちは、石垣に紫陽花を植え環境美化に努めている。雨に濡れた色鮮やかな花は小山第一小の校門まで続く
 

小山祗園城跡(城山公園)

眼下の思川とともに市のシンボルーン
戦国時代、小山氏の支配領域内には大小さまざまな城や館があった。その中心が祗園城である。小山氏の守護神として祗園社(現須賀神社)が城内に祀られていた。
昭和31年(1956)、都市公園として整備、以来「城山公園」の愛称で市民の憩いの広場として親しまれている。昭和39年(1964)「小山城址」の名で市の文化財指定第一号になった。平成3年(1991)3月12日には、小山氏城跡として鷲城跡とともに国史跡に指定。
春、園内は花見客で賑わい、また、広い空間は各種のイベント会場としても利用される。
いま、21世紀に向けた保存管理計画が進められている。  





 

妙建寺本堂の天井格子絵

天井に描かれた百人一首や龍の絵
市立文化センターの南側、国道4号線バイパス沿いにある日蓮宗の寺院。由緒によると日蓮宗六老僧の1人「日頃」の弟子・松本房日念が、建武元年(1334)に開いたという。山院号は法頂山城就院。
百人一首の絵は本堂の格天井に描かれている。板は約60p四方で白く塗られており、木肌の持ち味を生かしたのか40p位の丸い円が茶色に残る。歌はその中にあり、人物が鮮やかに彩られている。
百人一首といえば、普通、小倉百人一首を指します。「新古今和歌集」の選者の1人で鎌倉初期の歌人・藤原定家が百人の歌人の秀歌を一首ずつ選び出したものだ。
龍が描かれた天藍の部分を除いて全部で55枚。香炉のすぐ上の絵は線香の煙で煤かけている。本堂の竣工が享保2年(1717)というからその古さがわかる。
聞きつけて遠くから好事家が訪ね来ると、住職が快く迎えてくれるのがうれしい。
 

観晃橋 思川と日光連山

「晃」は「日光」と読む
江戸時代、幕府は軍事的な配慮から主要な河川には橋を架けなかった。むろん思川にも橋はなく、歩渡りか渡し船が普通だった。
明治18年(1885)、東北線が開通。
栃木方面からの小山駅利用者も増え、「栃木新道」の開削とともに思川にも木造の橋が架けられたが、洪水で流されることもたびたび。「観晃橋」の名で橋が架けられたのは
明治32年(1899)11月5日。当時の小山町長・田村達三郎が日光連山の眺望の素晴らしさにちなんで命名したという。「晃」の字を分解すると「日光」となる。
平成4年(1992)7月30日、観晃橋は纏と木遣り唄のなか、親子三代夫婦の渡り初めで新しく生まれ変わった。



 

小山大橋

ゆるやかな曲線と勾配のあるフオルム
「小山大橋」は、国道50号線の思川に架る橋、ゆるやかな曲線を描いて、国史跡「鷲城跡」の北側、思川を東西に大きくまたぐ。思川東部が台地のため、低地の大行寺地内からゆっくりと勾配をつくっていく。そのため全長も541mを測る。
国道50号線は群馬県前橋市から本県を横断、茨城県水戸市に至る北関東3県を結ぶ幹線道路。昭和27年 (1952)、一般国道50号線に指定された。県内は41qを走り、足利・佐野・小山市など主要都市を通る県南で最も重要な道路だ。
交通量の増大にともない、足利から小山までのバイパス建設が昭和42年(1967)から始まる。「小山大橋」の架橋工事は昭和45年(1970)に着手され、総工費11億円をかけ同47年(1972)7月17日に片側2車線が仮開通。幅2.5mの歩道つき幅員10.5m。
交通渋滞の緩和をめざし、いまも主な交差点の立体化・4車線全線開通に向けて工事は続いている。
 

鷲城跡

「小山義政の乱」の舞台
鷲城は思川に面した崖端台地上に立地、すぐ北側を国道50号線が走り小山大橋を背にする。平成3年(1991)3月12日、祇園城とともに国指定史跡となる。康暦2年(1380)からの東国における最大の内乱といわれる「小山義政の乱」の舞台として有名。
城は内城と外城の2つの曲輪から成る。内城は、東西280m・ 南北200mの規模で、中心部に鷲神社が祀られ、小山氏の領地のあった埼玉県北葛飾郡鷲宮町の鷲宮神社から勧請、名称はこれに由来。土塁・堀は山林、平坦部は畑地として利用されている。外城は、東西200m・南北250mの規模。廓内には古くから集落が展開し、いまも「外城」という地名で20世帯余りの住宅が建つ。
約200mの長い参道の両側には約160本の杉並木。昭和63年(1988)11月28日、社殿両側の2本のシラカシとともに市の天然記念物に指定された。

 

思川桜

小山で発見された変異種
桜は「花王」と称せられ、「花は桜木 人は武士」といわれるように、「花」といえば「桜」を指した。私たち日本人に一番愛されている花で国花にもなっている。思川桜は昭和29年(1954)、思川を眼下に望む島田地区の丘陵小山修道院の十月桜から突然変異で生まれたもの。それを日光植物園で固定した園芸新種で、開花は染井吉野桜より1週間ぐらい遅い。花弁は10枚程度で紅色を帯びた美しい花を咲かせる。市役所前の国道4号線沿いをはじめ、白鴎大学キャンパス近くの思川西岸、緑地公園の土手にも植えられている。
思川桜は、市内で発見された郷土の桜ということでとりわけ愛着が深い。昭和53年(1978)、市の木「シラカシ」、市の鳥「セグロセキレイ」とともに、市の花に指定されている。




 

小山総合公園

スポース都市小山の新拠点
「小山総合公園」は市域のほぼ中央に位置し、神鳥谷地区国道4号線を西に折れた思川に隣接して整備が進められている。
平成5年(1993)7月、県立県南体育館とふれあい橋が完成。「ふれあい橋」は公園内を横切る市道40号線をまたぎ、体育館と円形広場のある森のフォーラムとを安全に結ぶ。橋上の高さ約33mの斜めのタワーは、前後15本のケーブルに支えられ、「伸びゆく小山」を表すシンボルである。
「県南体育館」は最大収容人数5千人のメインアリーナをはじめ柔剣道場・トレーニング室など近代的な設備を誇る。山並みをイメージした屋根の緑色が目にやさしい。やがては市民プールも新設され、市内初の総合公園となる。
夏、噴水広場は子供達の格好な水遊び場のなり、ライトアップされた「ふれあい橋」は、夜空にいっそう映える。





 

おやまサマーフェスティバル

大スターマインが水面に映える
花火は歴史」は古く、そのルーツは昔の通信手段「のろし」のまでさかのぼる。遣唐使がその技術を伝え、鎌倉時代」には枯れ葉などに狼の糞をまぜると煙の立ちがよかったという。「のろし」を漢字で「狼煙」と書くのはこのためだ。
戦後間もない昭和24年(1949)8月、すさんだ住民の心を癒すように大1回目の花火大会が思川河畔で行われた。夏の夜空を美しく彩る花火は清流に映え、観衆を魅了したことだろう。
当時、予算は15万円で、小山町からの補助金5万円、商工業者からの寄付金10万円。花火は尺玉など150本、有志寄贈の仕掛け花火が6基であったという。
いまは数年、前から「おやまサマーフェスティバル」と名を変え、7月の最終土・日曜日にかけて多彩な催し物が実施される。平成6年市制40周年記念のサマーフェスティバル’94では、レーザーショーとともに、130,000発の花火が夜空を演出した。人出は市外からも多く、小山の夏に欠かせない一大行事だ。
 

小山駅

始めは上野まで3時間6分かかった
明治新政府は、駐日イギリス公使パークスの協力により鉄道の建設を推進。明治5年(1872)5月、新橋〜横浜間に日本初の鉄道が開業した。
その後、北への延長も計画され、小山宿の有力地主ら6人は「諸物産及び人民の往復便利の地」として、駅舎用地1町6反6畝28歩の無償提供を県に申し出る。ここに小山が近代都市に発展した大きな要因があった。
明治18年(1885)7月16日、待望の小山駅が完成。上野まで3時間6分、利根川鉄橋ができて2時間40分に。そして昭和53年(1978)5月、東北新幹線の開通にそなえ駅舎新築。同57年(1982)6月23日、新幹線の運転開始で東京との時間距離45分と大幅に短縮された。
乗客数が1日平均2万2千人余りの小山駅。これからどう発展するかは、都市「小山」が東京に接近するのか、栃木県の一都市そして自立を保つのかにかかっている。


 

御殿町通り(シンボルロード)

将軍の日光社参用の休泊施設だった
「小山御殿」
元和8年(1622)4月、徳川二代将軍秀忠は「小山評定」の吉例にならい、祗園城内に日光社参用の休泊施設「小山御殿」をつくった。「御殿町」はその名残りだ。
「小山御殿」はかなり厳重な配置で、門まで堀や土塁が幾重にも囲む。屋敷は南北約100m・東西約64mのほぼ方形の敷地にあった。しかし、維持費などの財政難で天和2年(1682)には解体されてしまう。市役所辺りがその跡だが」、遺溝は何も残っていない。
祇園城の廃城にともない「小山」は城下町から宿場町へと変わり、今日の市街につながってくる。明治19年(1886)、栃木〜小山間の新道開削により「御殿町」は分断され、住居表示でも中央町と城山町にわかれる。いまは道路の愛称や自治会名として残るのみ。
サマーフェステバルの1日目、「御殿町通り」はイベント広場として多くの人出で賑わう。
 

両毛線の第1鉄橋

思川の増水に難航した架線工事
両毛線は明治21年(1888)5月22日、小山〜足利間が開通。両毛とは群馬県と栃木県の古代の国名・上毛野と下毛野からできている。
昔から両毛地区は天産人工の富に恵まれていたが、惜しいことに運輸の便がまだ十分でなく、利根川水系の船運などに頼 っていた。とくに足利は東京・横浜への生糸・織物など輸出品の集散地となっており、この地に運輸の便がないのは産業の壊廃に帰すことであった。それゆえ、両毛線は明らかに産業鉄道の色合いが強かった。
架線工事は明治20年(1887)8月から始められたが、この年は降雨のたびに川が増水、難航した。橋脚は軟弱地盤のため、まず仮橋を設けて土砂などを運搬し、抗打ち基礎の上にレンガを積む工法がとられた。おかげで小山宿は多くの作業員で活況を呈したという。正式には「思川第1橋梁」という。山本有三の「路傍の石」で吾一少年が鉄橋でぶらさがったのを思い出したが、それは栃木市内のウチダ川。
 

須加神社表参道

灯籠の朱色がまぶしい
徳川家康が小山評定の折、関ヶ原での戦勝を祈願したという須加神社。表参道は道路を分断して長く続く。国道4号線の旧道からもバイパスからもアプローチできる。
参道両側にはケヤキ・イチョウなどの大木が繁り、その下に朱色の灯籠百基がきれいに並ぶ。祇園祭には大神輿がここを通り抜ける。
須加神社は小山市においても歴史のあるメモリアル・ポイントとして位置づけられる。清々しい空間は、訪れる市民に心地よい雰囲気を与えてくれる。





※おやま百景ガイドブック:平成6年10月24日初版発行・平成16年5月15日改訂版発行 編集 小山市教育委員会 文化振興課

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