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小山の伝説

小山の伝説・小山百景は、小山市教育委員会文化振興課・小山の昔の写真は、栃木県メディアボランティアに帰属します。無断転載、再配信等は行わないで下さい。

人から人へ、親から子へと長い間語り伝えられてきた伝説、それは生の郷土の歴史であり、かけがえのない文化遺産といっても過信ではありません。
伝説には多少の脚色があっても、郷土に根ざした先人たちのすばらしい英知や心情には現代に生きる私たちの心をとらえてやまない、不思議な力が秘められているように思われます。

小山の伝説

お知らせ勇ましい鮎子(小山)

 思川には、魚がたくさんいた。川魚をとって生計をたてる人もあった。そのひとりだった石造に、ひと粒種の娘がいた。鮎子という名前をつけて、かわいがって育てた。彼女は十六歳になり、若鮎のように溌剌として、また、水からぬけ出たように美しかった。
小山の城主義政は、たいへん勇壮活発な人だったが、家臣を愛し領民をいつくしんだ。初夏になると、毎年盛大な催しをやった。鮎船を総動員して、だれかれ問わず、鮎を数多くとったものに賞を与える いまの言葉で言えば、鮎釣り大会というところである。
さわやかな夏の朝明け、われもわれもと集まった人々を見て、義政はすこぶる愉快だった。船にも岸にも、たくさんの人がいた。五百人はあろうかと思われる人出だった。
義政の御座船から、高らかに合図の法螺貝が鳴りわたった。遠くて近く、人々は一せいに釣りはじめた。その日は、網は、禁断で、釣竿に限られていた。多くの釣竿が高く低く動き、大小の銀鱗がひらめいた。隣同士の糸がからんで、こぜりあいが起こったりした。義政自身も、本気そうに竿を手にしたが、鮎どもは領主を敬遠しているらしく、さっぱりかからなかった。義政のかたわらには、美しい夫人と稚児髷の若犬丸がいた。ふたりはもっぱら見物するだけで、義政が釣り落として舌打ちしたりすると、顔を見合わせ忍び笑いをした。川原いっぱいにくりひろげられた、生き生きとして楽しい情景に、お城の松までが身を乗り出して眺めているようだった。
一刻(二時間)ののち、終わりの合図の法螺が鳴った。
五百の釣竿が、ぴたりと動くのをやめた。係の家臣たちが手分けして人々の魚籠をあらためた。
義政たちは、川原の砂場にしつらえた座所に移った。七平メートル(二坪)ほどの広さに幔幕をめぐらし、葭簀の屋根がふいてあるだけだった。正面の床几に腰をおろした義政は、そばのしとねにいる夫人をかえりみて言った。
「案外わしが一番かも知れないぞ。」
「そうでございましょうとも。五つ六つはお釣りになりましたもの。
母の返事に、若犬丸が声をあげて笑い出したので、二人と明るく笑った。同席の家臣が苦しげにせきばらいをした。
やがて、幔幕の外で、声高く読み上げたはじめた。
「本日の筆頭、百一尾・・・・・」
呼び出されて、領主一家の前に現れたのは、竿自慢の川漁師ではなく、うら若い鮎子だった。義政は彼女が夫人によく似ているのでおどろいた。夫人も、おや、というように目を見はった。実家にいる妹姫に瓜二つだったのである。夫人は、鮎子が恥ずかしそうに褒美の品々をいただき、静かに退いてゆくのをいつまでも見送っていた。
次々に、十等までの賞品がわたされ、楽しい行事が終わって、義政たちは城へ帰った。あとには、十壺の酒と人々の朗らかなざわめきとが残された。
その日からほどなく、鮎子はお城にあがることになった。はじめ、彼女は父親もしきりに辞った。退したが、領主夫人のたっての所望に従ったのだった。夫人は、彼女に目をかけてくれた。実の妹といっしょにいるようでうれしい、とも言った。義政は、彼女に「小よし」というあだ名をつけた。よし夫人をひとまわり(12年)ほど若くしたようだ、という意味だった。領主夫人の庇護のもと、りこうな鮎子は、すぐに城内の生活に慣れた。彼女はたいそう幸福だった。
けれども鮎子の平安は長くは続かなかった。翌年の春、北のほうで宇都宮と合戦があった。たいしたこともなくおさまったので、彼女は胸をなでおろした。しかしそれも束の間、五月に茂原というところで決戦があり、さいわい小山方は敵の大将を討ちとって凱旋したが、多くの戦死者を出し、負傷者にいたっては、おびただしい数にのぼった。その始末もつかないうちに、鎌倉の公方足利氏満は、義政が私事で大合戦をやったのを怒り、軍勢をくり出し小山を攻めた。八月なかばに大聖寺の塁が落ち、小山祇園城は雲霞の大軍に囲まれた。城平はよく防いだが、関八州から馳せ集まった攻囲軍に敵することができず、とうとう降伏した。
晩秋のころだった。
一か月の籠城戦に、城内の女性たちは、城主夫人を先頭として、炊き出しや傷病者の看護に不眠不休の働きをした。血のにおいのなかで、彼女たちは、合戦というもののいたましさに、とくどき深い溜め息をついた。やさしいよし夫人は、苦悩と疲労とで、めっきりやせた。鮎子は、いつも夫人のそばにいた。父親の石造が、お城をさがるように言ってきたときも、かたくなに拒んだ。彼女には、夫人の立場が気の毒でならなかった。夫人はいつも言うのだった。
「合戦は殿方がなさるのです。わたしにできるのは、愛することだけ。」
夫人のあきらめの微笑を見るのは、鮎子にはつらかった。だが、彼女たちの平和への希望にかかわりなく、早くも次の戦が準備されていた。南の鷲城が修築され、たくさんの兵粮や武器が運びこまれた。男体山に真っ白な雪がかがやく日に、鷲神社で戦勝祈願が行なわれた。初春が来ても、のどかな屠蘇気分は見られなかった。二月に入れると、鎌倉軍進発の情報が流れて、城中のだれがもがきつい目つきの持ち主になった。義政の命令で、祇園城は重臣にまかせ、夫人や若犬丸も義政に従って鷲城に移った。祇園城よりずっと手広かったが、人馬がひしめい
て、安らかな片隅もないほどだった。悪夢のような日夜が果てしなく続いた。
六月なかば、西のほう巴波川のあたりで合戦がはじまった。多勢に無勢で、前線はしだいに後退した。その月末には、南のほう粟宮で合戦があり、ここも破られた。八月中旬には、鷲城は、十重二十重に囲まれてしまった。敵の大軍は、入れかわり立かわり攻め寄せた。城の将士は、最後の一人まで戦いぬこうと誓い合い、昼夜をわかたず必死の防戦を続けた。しかい鷲城約四か月、城中の食糧が尽きて、ついの降参するほかなくなった。まず女や子どもを城からおとすことになった。こがらしが吹きすさぶ夜、夫人と若犬丸とをはじめ十人ばかりの人影が、西の木戸口からひそかに抜け出し、思川の岸に待っていた小舟に乗って、いずこともなく落ちて行った。舟の宰領をしていたのは、鮎子の父の石造だった。彼は、一行のなかに鮎子の姿がないのに気づいたが、何もたずねようとはしなかった。娘の一途な気持ちがわかっていたからである。彼女は自分から申し出て、夫人に代わって義政の身のまわり世話をするために、城中に踏みとどまったのだった。
いよいよ最後の日が近づいた。城門を開いて、総員決死の攻撃をかけることになった。そのとき、重臣たちは、口をそろえて、殿だけは城をのがれて再挙をはかるように、とすすめた。義政は眉しかめ、
「ばかを申せ。わし1人が生き残ったとて、何になると言うのだ。」
だが、家臣たちはいちように平伏したまま、いつまでも動こうとしなかった。人々の肩がふるえ、涙が手の甲にこぼれ落ちた。彼らの固い決意と真情とにほだされて、義政も不詳不精に同意するするほかなかった。この日のために残してあった酒壺が運ばれ、ささやかな名残の酒宴がはじまった。鷲神社の森で、しきりにフクロウが鳴いていた。
敵陣の篝火が消えるころ、義政は小具足だけになって、城を出た。2人の若い武士が従った。
崖を降り、泥深いヨシ原をかきわけて、川原に向かった、夜は明け初めたが、さいわい深い霧だった。3人は、黙々と急いだ。
ふいに、近くで鳴子が鳴った。ヨシ原に、鳴子綱が引きまわされていたのだった。崖下の番小屋にいた数十人の敵兵が、けたたましく叫びながら駆け出した。
3人は、冷たい川水に走り入った。真冬だったが、数日の雨のあとだったので、水かさが増していた。進むにつれて、腰までつかり、胸もとに及んだ。川岸から射かける敵の矢が、あたりの水面に雨のように落ちた。やにわに、若武者の1人が、義政をかかえるようにして泳ぎはじめた。1人は少し引き返し、矢襖に立ち向かって刀をふるった。そのあいだに、義政たちはしだいに遠ざかり、向こう岸へ着いた。すると、その若武者は、息つくひまもなく、身をひるがえして戦友のほうへ泳ぎ出した。義政がどなった。
「小よし、戻れっ。」
泳ぎ手は、男装の鮎子だったのである。彼女は必死だった。
義政を護衛するためには、武勇の士が必要だった。彼女は矢のように泳ぎ帰り、ふたたび若武者を助けて泳いだ。しかし、もう少しというところで、不運にも、一筋の遠矢が彼女の首すじに命中した。痛手に屈せず、なおも2、3メートル(1、2間)泳ぎ続けたが、ついに力が尽きて、彼女の姿は水中に没した。さすが豪気の義政も、目をそむけて合掌するばかりだった。若武者はかろうじて助かり、彼の使命を果たすことができた。
戦塵がおさまってから、義政夫妻は、万年寺で戦死者の供養を行った。鮎子も女ながら供養をうけた1人だった。そのうえ、夫人は彼女の墓をたてて、ねんごろにとむらった。父親の石造は、長年殺生を業としてきたたたりだと嘆いて、仏門に入ったという。